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手袋の歴史は古く、エジプトの壁画に描かれ、ピラミッドの中からも手袋が見つかっています。13世紀ごろからヨーロッパでは女性の間でファッションとして手袋を着用するようになったようであり、これらは、リネンや絹でできており、時には肘まである手袋が広まっていました。日本の手袋は、鎌倉時代に武士が着用した篭手(こて)が始まりといわれ、西洋式の手袋は、16世紀中頃「手覆(ておおい)」といわれて、ポルトガルから伝わりました。江戸時代にはオランダから輸入されたメリヤスの手袋が武士にもてはやされ、幕末には手袋作りが下級武士の内職となったと言います。 |
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香川県の地場産業 東讃(香川県の東半分)に栄えた手袋産業のルーツは、今から百年以上さかのぼります。
白鳥町千光寺の僧侶で大僧都というくらいを持っていた両児舜礼(後に香山舜造と改名)は近所の19歳の明石タケノと恋に落ちました。しかし、当時の社会は身分が違えば結婚できなかった時代。二人は大阪に駆け落ちし、生活費を稼ぐためタケノは近所のメリヤス(伸縮生地)の縫製の仕事につきました。
その生地に舜礼は着目し、メリヤス手袋を作るのに専念したのが1886(明治21)年の事だそうです。
ところが、数年して舜礼は急死。いとこの棚次辰吉がその後を継ぎました。
商いは次第に軌道に乗り、1899年、松原村(今の香川県白鳥町)に戻った辰吉は、タケノとともに手袋工場「積善商会」を創業。
東讃に手袋産業の種をまきました。
その後、日露戦争が始まり1905年にはそれまで松原村を支えてきた松原塩田が塩専売法実施につき廃止。そのため松原村は副業を手袋製造に求めてきました。
1914年、第一次世界大戦。
その頃、手袋の生産国はドイツでその原材料はイギリスが引き受けていました。
その両国が交戦国になったため、その代替需要が日本に廻ってきて、その特需をこなすために東讃地方に大阪資本の下請け工場が広がっていきました。
1918年休戦とともに特需景気は霧散。 |
左:棚次辰吉 銅像 右:両児舜礼 石碑 |
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その後、不況挽回の道を求め、設備の近代化製品の多様化、生地材料の多様化がはかられてきました。
発展、衰退を繰り返しながら1946年ごろから東讃の手袋製造業が大きく変わってきました。
東讃の手袋製造業はそれまで大阪資本の下請加工だったが、戦後に大阪資本から独立したのです。
また材料の自由化によって東讃の手袋業者は原材料の確保、製造、それに販路の開拓と独自の経営が行われ、さらに品種でも皮手袋、合皮手袋、編手袋、ニット製品など多彩になってきました。
そして戦前、手袋の役割は防寒用として普遍商品だったのが戦後、暖房器具の発達など生活環境の変化により防寒用から装飾用に変化してきました。 このことにより、手袋の高級化と高機能手袋の開発が要求されてきました。
作業用、スポーツ用などいろいろな職業の人がいろいろな場面で使うものになってきました。
そこで今では生活の中のTPOに合わせて多種多様な手袋が開発されています。 |
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